先日、「阪神・淡路大震災鉄道復旧記録誌」という西日本旅客鉄道が作成した書籍を読む機会があったので、その中から復旧の過程でどのような形で運転をしていたのか載っていたのでまとめました。
 なお、今回は被害やそういうところではなく、あくまで運転の話、正確には配線の話となります。また、その当時のダイヤ(運転本数)については神戸鉄道資料館JR神戸線のダイヤ阪神大震災復旧の過程をご覧ください。


阪神・淡路大震災発生当時のJR神戸線配線図

 まずは阪神・淡路大震災発生当時(1995年1月現在)のJR神戸線配線図を振り返ります。
 現在の配線は「配線略図.net」様の東海道本線山陽本線福知山線の各配線略図をご覧ください。
 一部航空写真などからの推測もあります。また、保線用の線路など一部省略した箇所もありますのでご了承ください。
大阪~西明石 震災時配線略図1
 まずは大阪駅と塚本駅。塚本はあんまり現在と変わっていないように見える感じですが、大阪駅のホームは減ったんでしたっけ?北側の2線分のホームがなくなった感じでしょうか。それ以外にも渡り線がシンプルになっていそうですね。
大阪~西明石 震災時配線略図2-2
 尼崎駅は東西線工事のまっただ中でしたので、暫定配線中の出来事でした。下りJR宝塚線は外側線の外側に分岐する形ではなく、この時点で内側から分岐する形になっておりました。また、上りのJR宝塚線の配線は現在とは異なり下りとはバラバラの位置を走っていました。元々のJR宝塚線上りホームは2線あり、もうちょっと北側にあったかと思いますが、工事中の暫定配線で今の外側線のホームに入る形になっています。
大阪~西明石 震災時配線略図2-1
 一応、おまけの塚口です。この当時は西側2線が本線でしたが配線変更が行われており、東西線開通時に改良され、現在では両側が本線の待避線が中線になっていて折り返しに上下線の支障がないようになっています。
大阪~西明石 震災時配線略図3
 この辺は今とさほど変わらずというところでしょうか。
大阪~西明石 震災時配線略図4
 東灘信号所には現在摩耶駅ができていますね。
 また神戸港への貨物線がなくなったため、外側線に貨物用の待避線がそれぞれ1線ずつあるだけで配線がすっきりシンプルに現在は変えられています。
大阪~西明石 震災時配線略図5
 この辺はあまり変化ありませんね。
 強いて言えば下りの神戸駅手前で内側から外側への渡り線がなくなったぐらいでしょうか。
大阪~西明石 震災時配線略図6
 この当時は鷹取工場や鷹取操車場がまだまだ現役でした。鷹取操車場の跡地は神戸貨物ターミナルになっていますね。鷹取工場の跡地はすっかり再開発されました。
大阪~西明石 震災時配線略図7-1
 そしてこの区間は西明石駅構内も含めて変化がない感じですね。


1995/01/18 高槻~尼崎(塚口)間開通 [不通区間:尼崎~西明石]

 1995年1月17日午前5時46分、阪神・淡路大震災発生。
 1月17日中には大阪環状線や阪和線、関西線など復旧したがJR京都線・神戸線の高槻以西はこの日の内に復旧できず、高槻~尼崎(塚口)間と西明石~姫路間は18日からの運転となりました。
大阪~西明石 震災時配線略図 1995_01_18_1
 東側についてはJR宝塚線塚口折り返しとし、JR神戸線は尼崎まで6時54分に復旧しました。大阪~尼崎間は内側線を使用しています(※)。なお、運転は普通電車のみとなり快速電車は大阪駅まで運転とし、車両は直接か宮原操車場に引き上げる形で折り返ししました。
 ※なお同一文献内でこのときの開通が外側線か内側線かで食い違っていますが、外側線開通日があとで出てくるので、ここでは内側線を通したというのが本当であると思われます。なお、塚本までは宮原操車場への回送の関係から(少なくとも下り線は)外側線も復旧していたでしょう。
大阪~西明石 震災時配線略図 1995_01_18_2
 西側のは西明石まで8時2分に復旧しました。
 当初は4番線ホームで折り返していましたが(赤線)、1線では本数が確保出来ないため、明石電車区の区8番線に引き上げ4番線→区8番線→5番線というルートで折り返しするようになりました(青線)。この変更は18日中から実施なのか19日始発から実施なのかは不明です。


1995/01/19 尼崎~甲子園口間開通 [不通区間:甲子園口~西明石]

大阪~西明石 震災時配線略図 1995_01_19_1
 尼崎~甲子園口間の内側線が1月19日始発から開通しました。
 元々甲子園口折り返しの電車は走っていたので、特筆することはあまりないですね。普通電車のみの運行ですが塚口行きと甲子園口行きを交互に運転する形となりました。


1995/01/20 塚本~尼崎外側線開通 [不通区間:甲子園口~西明石]

大阪~西明石 震災時配線略図 1995_01_20_1
 この日よりJR宝塚線の電車が外側線運転になっているようです。
 ただ、参考にした文献内でもこの日まで大阪~尼崎間が外側線運転なのか内側線運転なのか表記が揺れており、どちらが正しいのか謎です。宮原運転所に引き上げている以上塚本まで(少なくとも下り)外側線は運転しているはずでどうなっているのか不明です。文献内には「JR宝塚線は外側線運転により1月20日開通」という記載があるので、おそらくこの日に外側線になったんじゃないかなぁって思います。ちなみに塚口~宝塚間のJR宝塚線が開通するのは1月21日です。


1995/01/23 須磨~西明石開通 [不通区間:甲子園口~須磨]

大阪~西明石 震災時配線略図 1995_01_23-24_1
大阪~西明石 震災時配線略図 1995_01_23-24_2
 西側区間で須磨~西明石間が1月23日の始発から開通しました。須磨駅には大阪方にシーサスクロッシングが設置されていて、大阪方面からの折り返しには対応していますが、姫路方からの折り返しには対応していませんでした。このため、運転間隔確保のために迅速に引き上げて転線する必要があることから入換信号機を設置し、上り電車線本線に到着→下り電車線本線大阪方→下り電車線本線に据え付けるルートで折り返すことになりました。


1995/01/25 甲子園口~芦屋開通 [不通区間:芦屋~須磨]

大阪~西明石 震災時配線略図 1995_01_25-29_1
 いよいよ東側区間が芦屋まで開通です。1月25日始発に開通しました。
 芦屋駅は下り内側線本線の4番線を使用し、大阪方の非常渡り線を使用して折り返すこととしました。これに伴い、出発信号機を4番線大阪方に設置しています。
 また、橋上駅舎が使用できない状態だったため駅南側に仮設駅舎を設置しました。また、仮設駅舎への通路は線路上に枕木を敷き詰めて設置しました。
 これにより普通電車は芦屋折り返し、快速電車は大阪折り返し、新快速電車は大阪から普通電車となって甲子園口折り返しとなりました。


1995/01/30 神戸~須磨開通 [不通区間:芦屋~神戸]

大阪~西明石 震災時配線略図 1995_01_30-02_07_1

大阪~西明石 震災時配線略図 1995_01_30-02_07_2
 いよいよ復旧過程で一番のウルトラCをかます開通がやってきます。1月30日始発より神戸~須磨間が開通しました。今まで信号の新設はあっても軌道の新設はありませんでした。しかし、この開通より軌道の新設も含めた開通が行われていきます。配線略図では点線で示した部分が軌道または分岐器新設部分となります。
 このとき、新長田駅が崩壊していることと、新長田~兵庫間の電車線の擁壁が傾斜して上り列車線を支障していたため、これの復旧には時間がかかることからこれを避けるような形での開通となりました。具体的には鷹取西方で非常渡り線を使用した列車線への転線を行うこと、鷹取駅の列車線に仮設ホームを設置すること、和田岬支線への連絡線(非電化)を簡易電化することにより、列車線経由での開通を早期に行うことができました。もちろん神戸駅には引上線が姫路方にしか設置されていないため、下り内側線、外側線の大阪方を引上線として使用できるよう入換信号機などを設置しました。なお、神戸駅の上り内側線から下り内側線への渡り線はホーム途中から分岐するような形であったため、神戸駅に8両編成までの発着しかできません。


1995/02/08 芦屋~住吉開通 [不通区間:住吉~神戸]

大阪~西明石 震災時配線略図 1995_02_08-02_13_1
 2月8日始発より芦屋~住吉間が開通しました。
 住吉の隣の六甲道駅は高架橋が崩壊し、復旧まで時間がかかることからしばらくの間この駅で電車が折り返すことになります。この駅には折り返し用設備がないため、大阪方にシーサスクロッシングを設置しました。できれば冗長性を考えて姫路方に設置したいところですが、六甲道の高架橋が始まってしまうため設置できなかったようです。なお、このシーサスクロッシングはJR難波駅地下化工事で使用するものを持ってきました。また姫路方にホームを延伸、列車線上にホームを拡幅し、下りホームには臨時出口を設置しました。その後、3月2日には上りホームにも臨時出口を設置し、朝夕ラッシュ時のみ使用されました。
 この開通を前にした2月6日から芦屋駅の橋上駅舎が使用できるようになったため、住吉開通に支障となる仮設駅舎やその通路の使用が終了となっています。なお、引き続き設定される芦屋折り返しの電車は従来通り4番線での発着となっています。
 これにより、普通電車と快速電車は住吉折り返し、新快速電車は芦屋折り返しでの運転となりました。


1995/02/14 尼崎~芦屋外側線開通 [不通区間:住吉~神戸]

大阪~西明石 震災時配線略図 1995_02_14-02_19_1
大阪~西明石 震災時配線略図 1995_02_14-02_19_2
 住吉~芦屋間の外側線が2月14日に開通しました。
 これまでの開通では営業列車で徐行運転を重ねて路盤の踏み固めを大なっていましたが、すでに内側線が開通している状況下でそれをやると内側線の電車に抜かれてしまってまずいので、機関車による踏み固めを初めて2月12日深夜に実施されました。
 これにより、新快速が外側線運転となり、新快速と普通電車が住吉折り返し、快速電車が芦屋折り返しとなりました。


1995/02/20 灘~神戸開通 [不通区間:住吉~灘]

大阪~西明石 震災時配線略図 1995_02_20-03_09_1
大阪~西明石 震災時配線略図 1995_02_20-03_09_2
 さぁ、いよいよ高架橋が崩壊している六甲道駅の西隣、灘駅まで2月20日始発から開通しました。
 この開通にあたり特筆すべきことは本来下り線である南側2線を使用したことです。これは高架下のテナントの立ち退きや他の構造物の関係で海側2線の復旧が早まるためでした。
 この開業によりJRとしては住吉~灘間は不通ですが阪急電車の御影~王子公園間が2月13日に開通していたため、それぞれの駅を徒歩連絡すれば鉄道のみで阪神間がつながることになります。多くの乗客が見込まれることから多客対策もなされており、元町・三ノ宮両駅については上り内側線上に仮設ホームを設置し、乗客の上下分離を行っています。灘駅の折り返しは東灘信号所内に引き上げることとし、到着を上り内側線にしてこちらも上下分離するほか、下りについては2線使用として冗長性を持たせています。混雑緩和のために上りホーム外側線を埋めて通路を設置し、そのまま出口に向かうようになりました。
 そして、輸送力を増やすための苦肉の策として、電車線の8両分しかホームがない神戸、鷹取(仮設ホーム)、塩屋、舞子、朝霧の各駅の上りホームだけ4両分延伸し、12両編成で運転可能な状態にしました。なお、12両編成の下りはすべて快速として運転したので、結果的に201系の快速が登場しています。
 ちなみに2月15日には和田岬線が開通しています。


1995/03/10 神戸~兵庫下り外側線・兵庫~鷹取電車線開通 [不通区間:住吉~灘]

大阪~西明石 震災時配線略図 1995_03_10-03_25_1

大阪~西明石 震災時配線略図 1995_03_10-03_25_2
 いよいよ新長田駅の営業が再開します。といっても仮駅での営業です。元の場所での営業再開は1996年4月3日まで待たねばなりません。
 新長田仮駅の完成と同時に電車線が開通しました。新長田駅の仮設ホームが和田岬線への回送用小運転線を支障するため、下り列車線との合流位置が大阪方に移設されました。鷹取駅の仮設ホームも撤去され、既設のホームの延伸が行われました。神戸駅での外側線から内側線への転線の制限速度が20km/hと低く、運転の支障となっていたため兵庫まで外側線を運転するようになりました。
 この線路変更による徐行規制がなくなってから新快速が西側区間でも運転開始しました。


1995/03/26 灘~神戸上り内側線開通 [不通区間:住吉~灘]

大阪~西明石 震災時配線略図 1995_03_26-03_27_1
大阪~西明石 震災時配線略図 1995_03_26-03_27_2
 いよいよ全線開通が4月1日前後に決定されて、それに向けて円滑に開業できるよう整備が行われていきました。事前に変えられておくべきところは変えておくという工事です。まずは3月26日に灘~神戸間の内側線が開通しました。
 元町・三ノ宮両駅の仮設ホームは撤去しましたが、終電後では作業が間に合わないため夜間から仮設ホームの使用を中止し、1つのホームで上下線を扱いました。


1995/03/28 灘~神戸下り内側線開通 [不通区間:住吉~灘]

大阪~西明石 震災時配線略図 1995_03_28-03_31_1
大阪~西明石 震災時配線略図 1995_03_28-03_31_2
 全線開通に向けて着々と準備を進めていきます。使用していない線路についても機関車による軌道の締め固めが行われています。3月28日には3月25日まで上り線として使用されていた線路が元の下り内側線として開通しました。
 灘駅の姫路方の分岐器を撤去しています。これにより引上線に入った線路によって、折り返しの外側内側の運転が決まったはずです。


1995/04/01 全線開通

 ついに六甲道駅の崩壊した高架も復旧して、全線開通、運転再開となりました。
 阪神間で一番乗りでの全線開通となるため、乗客増に対応するために新快速電車の増発、快速電車の増結が行われています。増発に当たり尼崎~大阪間の外側線の線路容量がネックとなりますが、大阪駅の場内信号機改良などで対応しました。これにより平日朝の通勤時間帯の輸送力は震災前の2割増しとなっています。
 その後、全線開通とともに朝の通勤時間帯での新快速電車増発などにより阪神間の乗客を並行私鉄からかっさらっていきました。そして、このとき増えた乗客は並行私鉄が開通した後も減ることはありませんでした。
 この時の乗客増の経験から、所要時間の短い電車を多くの本数を多くの駅に停車することによって、並行私鉄から乗客をさらに奪っていくことを目指すようになります。それを達成するために、新型車両を投入し、最高速度を上げて、余裕時分を減らしました。JR京都線・神戸線の快速では新たに尼崎・西ノ宮・舞子停車、新快速では終日高槻・尼崎・芦屋停車、JR宝塚線快速の中山寺停車と停車駅は増えていきます。余裕がなくなった運転となり、「新快速はいつも遅れている」と言われるようになりました。一方で、遅延の原因を作った乗務員は厳しく責任を追及されるようになります。
 その結果、重大な事故が発生したのは皆さんもご存じの通りです。この事故の原因は様々な原因がありますが、原因の一つとしては阪神・淡路大震災での復旧の成功があるかもしれません。

参考文献(敬称略)

 ・「阪神・淡路大震災 鉄道復旧記録誌」西日本旅客鉄道
 ・「阪神大震災記録写真集 : ある大学院生の目を通して 鉄道関係」進藤裕之・撮影
   (神戸大学附属図書館 震災文庫 デジタルギャラリー
 ・「激震の記録1995取材映像アーカイブ朝日放送テレビ(ABC)
 ・「JR神戸線のダイヤ阪神大震災復旧の過程神戸鉄道資料館
 ・「東海道本線山陽本線福知山線の各配線略図」配線略図.net
 ・「大阪」「塚本」「尼崎」「甲子園口・西ノ宮」「芦屋」「住吉
   「東灘」「神戸」「兵庫」「鷹取」「須磨」「西明石」の各配線図
                 懐かしい駅の風景~線路配線図とともに

 なお、本文記載の配線略図の作成には配線略図エディタを使用しました。